INTERVIEW 2024.07.31 UP
BRICO:飲食事業を展開する有限会社ブリコラージュ(代表:古川真琴)、株式会社ブリコラージュラボ(代表:田中道行)、また運営する店舗などを総称した呼び名。有限会社ブリコラージュは「珈琲ぶりこ」「ばーぐ屋ぶりこ」を擁し、株式会社ブリコラージュラボは「アトリエブリコ」「BRICOTable」を擁する。
スフォリアテッラ(sfogliatella)はイタリア・ナポリ発祥の伝統的なスイーツで、薄く延ばした生地を何層にも重ね、その中にリコッタチーズを使ったクリームなどを詰めて香ばしく焼き上げたもの。生地の重なりが貝のように見える繊細なフォルムが特徴で、ほおばった時のパリパリ、サクサクした食感がたまらない、といいます。
このスフォリアテッラを自分たちらしくアレンジし、本場ナポリに負けない、いいえ、それ以上に楽しく、新しい味わいの「スフォリア」をつくろうと試行錯誤を続けているのが、名古屋市で飲食業を展開するBRICOのコアメンバー。料理人の田中道行さん、パティシエの鵜飼香里さん、経営者の古川真琴さんの3人です。
BRICOといえば、名古屋市大須商店街にある古民家カフェ「珈琲ぶりこ」とハンバーグ専門店「ばーぐ屋ぶりこ」が、地元の老若男女や国内外の観光客から人気の店として知られ、2店とも休日ともなれば行列必至。また、BRICOオリジナル「熟タルト®」で話題となった「アトリエブリコ」は現在店舗を閉じているものの、マルシェなどへの出店をたくさんのファンが待ちわびています。
そんなBRICOの面々が、一体どんなきっかけでイタリアの伝統菓子スフォリアテッラに魅了されたのでしょうか。そして、様々なトライ&エラーを経て、どんなアイデアを詰め込んだ「スフォリア」をつくろうとしているのでしょうか?
このシリーズでは、BRICOの「スフォリア」ができるまでの道のりをその原点からたどり、スフォリアテッラの生地のように幾重にも折り重なるエピソードを、3回に分けてご紹介していきます。vol.1となる今回は、「スフォリア」をまさにその手でつくり出す料理人・田中道行さんのヒストリーから。
「一つのジャンルをそんなに深くやったっていうことはないです。それより『やりたいな』と思ったことを、自分で本やネットで研究したりして、新しく取り込んでいくっていうのが多いですね」
と語るのは、料理人の田中道行さん。BRICOにおいて新メニュー開発はもちろんのこと、店舗で提供する料理の仕込みや「ばーぐ屋ぶりこ」での調理までを担いつつ、新規事業立案などにも携わります。和食、フレンチ、イタリアンにスイーツとジャンルを問わず腕を振るい数々の人気メニューをつくり出してきた田中さんですが、料理人としてのこれまでの経歴は、少々“異色”と言ってもいいかもしれません。
田中さんは10代の頃に働き口を探して他県から名古屋へ。就職情報誌で回転寿司の店を見つけて“とりあえず”入社したのが、飲食業の道に進む第一歩だったそう。しかし、そこで1年間働いてみたものの、同じ作業を機械のように繰り返す日々に「自分の将来はどうなるのか?」と不安を感じて雇い主に相談。人脈をたどって紹介してもらった会員制のフレンチレストランに就職し、コック見習いとして本格的な修行がスタートします。
「その時まだ17歳くらい。17の子どもがレストランに入って、本当の意味で料理の基礎を学んだんです。全部初めて経験するようなことで、科学的な目線で料理を見たり、知っていくっていうのは面白かったですね。ただ…」
当時の職場環境は、今の言葉で言うなら超ブラック。挨拶ひとつも文字通り「叩き込まれる」時代です。さらに、自分の師匠が店を変われば弟子は全員ついていくという慣行に「これでいいのか?」と疑問を抱いた田中さんは、ある時「辞めます」と告げたのです。
その頃、厳しい環境の中でも料理についてのメモを毎日取り続けた一冊のノート。コック見習いを辞めても手放さなかった青い表紙のノートが、田中さんにとっての「バイブル」に。この先ぼろぼろになるまで見返され、BRICOのヒットメニュー考案から、やがては「スフォリア」の開発にも役立つことになります。
田中さんが料理人の師匠の元を離れ、しばらくのブランクののちに始めたのが、キッチンカーでの移動販売。コック見習い時代の友人と2人、融資を受けて購入した中古のキッチンカーで、今日はここのライブ会場、明日はあっちのオフィス街と、様々な場所に出向いてホットドッグやランチメニューを売り捌く日々。
「自分で何か商売したいと思って始めて、頑張ったけど大変でした。キッチンカーは当時まだ珍しかったですが今みたいにオシャレじゃないですし、販売する場所も確保されてなかったし。とにかく毎日決まった数の料理を仕込んでおいて、イベント会場とかにゲリラ的に行って2時間でだーっと売って、だーっと帰る。他にも言えないようないろんな大変さがあって、毎日ヘトヘトになって、もう飲食はいいやと思って、業界を離れました」
これで僕の飲食業第1部は終了です、という田中さんが次に選んだのは、いわゆる会社員の道。販売会社に営業職として入社し着々と実績を上げていきます。
「融資を受けた分の返済もあったし、もう一度、人生をフラットにしようと。それなりの成績を残して、返済もして、管理職になりました。でも商品とか仕事に愛着があったわけじゃないから、そこまで行ってまた『これでいいのか?』と思うようになった。その時はもう30歳になる頃で、生まれて初めて、自分がやりたい仕事っていうのを本当の意味で考えた時に出てきたのが『やっぱり飲食業がいいのかな』と」
収入や安定性の面で不安はあっても、将来を本当に考えるなら、やりたいことをやっていた方がいい。安定より心の健康を取ろう。そう思い至り、敏腕営業マンの道を捨てて再び飲食業の道を探す田中さんに「珈琲ぶりこ」を紹介したのが、かつてキッチンカーでペアを組んでいた友人。BRICOの経営者・古川さんの知り合いでした。
「アルバイトの面接が田中との初対面です。Tシャツ・短パンで来ましたね。髪の毛も立ってました」
田中さんとの出会いを思い返して、古川さんは笑います。「珈琲ぶりこ」店長の退職が決まり人材不足だったことに加え、よく知る人からの紹介だったので、最初から入ってもらおうと決めていた、という古川さん。
一方の田中さん曰く「Tシャツ・短パンで行ったのは、当時はブランドもののいかついスーツしか持ってなくて、カフェならラフなイメージの方がいいと思ったから…(笑)」。その時の思いをこう振り返ります。
「僕が面接で聞いたのは、ウチはずっと赤字続きなんです、と。だからこそ自分が何かできるならここなのかなと思った。厨房設備も脆弱なもので、自分がやりたいことがほんとにできるのかなという思いもあったけど、こちらも10年くらいまともに包丁も握ってない期間があるわけで。この店でダメだったとしたら、この先飲食業をやってもきっとうまくいかない。だから自分を試すステップというか、そういう場にしようと思った」
「珈琲ぶりこ」に現れた30代の新人アルバイト。一番の目的は赤字続きの経営をなんとか改善すること。田中さんは、売り上げを立てることを追求してきた元営業マンの目線で、生意気を承知で提案し、古川さんはそれらをほぼすんなり受け入れたといいます。
「田中を当初から信頼していましたから。当時、300円台でパスタを食べられる店が隣にあって、そこの行列がウチの店の前を塞ぐんですよね。それを見て田中が文句を言うんです、なんでこんなことになってるんだ、なんとかしないと、って。色んないきさつでカフェを始めてみたものの、正直なところ数字には疎かったので、田中の提案は有り難かったですね」
商店街の中ではある程度、数を売る必要がある。それには、接客云々にこだわるよりも現物の商品力を上げること。観光客よりも、近隣で働く人々のランチ需要を掴めれば、売り上げ数字が読みやすいはず。田中さんがそう予測して自ら開発した数々の新メニューが好評を博し、「珈琲ぶりこ」の経営は1年半ほどで黒字に。豚肉や野菜のせいろ蒸しは現在まで続く定番メニューになり、毎日売り切れたハンバーグは「ばーぐ屋ぶりこ」の出店へとつながっていきます。
そして、大須から少し離れた矢場町に「珈琲ぶりこ2号店※」を出店。そこにアルバイトとして入社したのがパティシエの鵜飼さん。のちにイタリアの伝統菓子スフォリアテッラを見つけ出し、田中さんと古川さんに紹介する、その人です。
※現在は閉店
パティシエとして活躍する鵜飼さんは、高校卒業後に大阪の有名専門学校で製菓を基礎から学んだ人物。そこからBRICOと出会い熟タルト®を手がけるまでのヒストリーは次回vol.2に譲りますが、「珈琲ぶりこ2号店」で一緒に働いていた頃の田中さんを、鵜飼さんは「尖ってましたよね」と表現します。
「その頃の田中さんは、今からは考えられないくらい、輪郭全体がカチカチして尖ってた感じ。ぜんぜん怖いとかではないんですけど。特に赤いサロン(エプロン)がすごく印象的で、赤を選ぶ人がいるんだ…って思って。それまで見てきた職人さんにはいなかったから(笑)」
そう聞いた田中さんは「それは、燃えてたからじゃないですか」と、真顔。実際赤が好きだったし、赤いサロンには営業マンが赤いネクタイをつけるように「強気で行く」という意味合いも。「珈琲ぶりこ2号店」のスタッフたちはそんな強気の兄貴分を頼りにし、パーティーやウェディングの需要もある中で、料理部門はメニュー開発も調理も田中さんが一手に引き受ける形になっていました。当時について、鵜飼さんは語ります。
「だんだんと、それじゃダメだよね、という話になったんですね。田中さんはその頃はもうBRICOの取締役で、経営者。だからお店の営業自体はスタッフみんなが自分ごととして考えて、自分たちで色々とアイデアを出してやっていこう、田中さんは別の場所で仕込みや開発や、本来の仕事に専念してもらおうっていう流れになりました」
こうして、BRICOが新規事業にチャレンジする体制が整いました。市況や環境がどんなに変化しようとも好奇心のままに新しいことを試み、のちに「スフォリア」づくりへと通じる道が開かれたのです。
田中さんの入社をきっかけにBRICOは「スチームフード」「珈琲ぶりこ2号店」「ぶりこ農園」「グラノーラ通販事業」「ばーぐ屋ぶりこ」、熟タルト®の店「アトリエブリコ」などなど、新店舗・新事業を次々と展開。さらにこの間インドネシアでの事業も手がけながら、2020年には大須商店街からほど近い上前津の住宅街の一角に、パン食生活の店「BRICOTable(ブリコターブル)」をオープンします。「BRICOTable」は職人が焼くパンと田中さんの手による多種多様なデリ、そしてヨーロッパの街角を思わせる佇まいで評判に。しかし、根強いファンがいるにもかかわらず、コロナ禍や人材の不足などから、惜しまれながらもほどなく閉店せざるを得なくなりました。
それでも次の一手、次の一手を考えつづけるのがBRICOの面々です。「BRICOTable」をいずれは再開するために、その場所を仕込みを行うセントラルキッチン及び新商品の開発拠点として生かすことに。次の一手を考える中で田中さんの脳裏に浮かんだのが、以前鵜飼さんから「食べてみて」と紹介されたスフォリアテッラだったのです。
「あの、パリパリしたのをやってみよう」「いいかも」。田中さん、古川さん、鵜飼さんの3人で話し合い、BRICOのスフォリアテッラづくりがスタートしました。やってみたいと思ったらどんどん試すのがBRICO流。「BRICOTable」を再開した暁にはメインの商品としてショーケースに並べようと、田中さんはネットや書籍から情報を集め、時に青いノートに立ち戻りながら、まずは難しい生地づくり。生地の中にクリームではなくバーグや惣菜を入れたBRICO流の「スフォリア」もあれこれと。
「スフォリアがもう既に流行っていたらやらなかったし、自分たちも、ブームを起こして儲けようとか、そういうことじゃない。むしろ、街の皆さんの食卓をちょっと豊かにするような、定番の味に育てていきたいと思ってるんです」
自然なもの、体にいいものを使って、できる限り手間をかけて美味しく仕立てて届けたい。それがBRICOの考え方。家ではできないほどの手間隙をかけるから、買ってもらい、食べてもらう価値がある。だから、あえて効率は追わないという田中さん。鵜飼さん、古川さんも思いは同じ。気が遠くなるほど手間がかかる「スフォリア」を、イタリアとは全く違う日本の気候環境の中で形にし、美味しく食べてもらうには? 挑戦は始まったばかりです。
vol.2(2024.8 公開予定)につづく
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